今回の担当は、
恩多町教室・教室長の中西です!
タイトルの通り今日12/14は赤穂浪士討ち入りの日なんですよね。
が!しかし。
教室の子どもたちでそもそも赤穂浪士や討ち入りについてはほとんどの子が知りません。
昔はテレビで時代劇などもやっていましたが今はほとんどやっていないし、
そもそも縁がなさすぎて全く興味もないでしょうね~・・・
なので、今回は今日にちなんで雑学紹介にします!
赤穂浪士とは、播磨赤穂藩(はりまあこうはん)に属していた、藩士のことを指します。
そもそもハリマともアコウとも地名の読み方から分からないでしょうね。
事の発端は1702年3月14日、江戸城本丸にある”松の廊下”で起きた切り付け沙汰です。
赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、指導役であった吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切り付けるという事件が発生してしまうのです。
江戸城内では刃傷沙汰が禁止されていたため将軍徳川綱吉が激怒し、浅野は即日切腹・領地没収となりました。
吉良は深手を負うことはなく軽傷で吉良側にはお咎めなし(片落ち)という内容でした。
はい!やっと中学生でも知っている人が出てきましたね。生類憐みの令で覚えてもらう徳川5代将軍です。
当時は、事件の加害者と被害者は共に処分がある「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」という決まりがあり、
本来であれば吉良側にも処分が下るべきでしたが、処分が下ったのは浅野側のみでした。
この事件後、赤穂藩は取りつぶしにあってしまいます。
そのため、藩士ではなく、浪士という言い方になっています。
赤穂藩取り潰しという結果に納得のいかなかった赤穂藩の旧藩士たちは、藩主の無念を晴らすために、赤穂藩のお家取り潰し撤回を求めて運動を行いますが、思うようにいきませんでした。
そのため、主君の仇討(あだうち)として吉良上野介を打ち取ることを決め、何度となく集まって会議を重ね、水面下で準備を進めます。
リーダーとなったのは筆頭家老であった 大石内蔵助(おおいしくらのすけ)です。
しかし大々的に動きを悟られては仇討ちを成し遂げられないため、いったんは赤穂を離れ諦めたふりをして時間をかけて綿密に計画を練り、
そして、浅野内匠頭の命日でもあった1702年12月14日の深夜、大石内蔵助を筆頭にした47人の藩士は、吉良邸に討ち入り!主君の仇討に乗り込むのです。
吉良上野介側の被害はかなり甚大で、屋敷にいた約150人のうち45人が死傷。一方の赤穂浪士側は2人が負傷したのみとなっています。
時間にして二時間ほどだったと伝わっています。
仇討ちを成し遂げた浪士たちは、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へ。
明け方、吉良邸があった両国本所を出発し、高輪にある泉岳寺まで、距離にして訳10㎞歩き。
彼らは主君の墓前に吉良の首を供えました。
浪士たちは、主君に仇討ちの報告をしたのち縛につき、いくつかの大名屋敷にお預けになります。
江戸の市民は事件に拍手喝采し、武士たちの中にも主君の仇を討ったことを賞賛する声は少なくなかったものの、
幕府は翌年の1703年2月4日に浪士たちに切腹を命じ全員切腹となりました。その後、泉岳寺などに葬られました。
この一連の流れを歴史の教科書では赤穂事件として高校の日本史で習います。
う~ん概要を書いただけでは面白さ伝わるのかな~・・・
そして、
この赤穂事件を題材にして人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎の演目、時代劇などで
【忠臣蔵(ちゅうしんぐら)】として脚色創作されています!
赤穂事件は知らなくても四十七士や忠臣蔵で知っている人もいるかもですね。
とにかく、
平和になった江戸時代の元禄にて、大石内蔵助ら四十七士の行動が、かつて戦国の世に存在した「武士道」を思い起こすものであった点や
自己犠牲や主君に忠義を尽くす者たちの美談として後世に語り継がれることになります。
勧善懲悪や皆で協力するなどドラマとしての要素も多々ありエンターテインメントとしても受けた理由があります。
信念を持ち行動し、正しいことのためには自己犠牲を厭わないという気持ちが根底に清く正しいという日本人らしさを作っていくお話の一つでもあると思うのです。
さて、雑学シリーズ長くなりましたが
兵庫県赤穂市や港区泉岳寺など
赤穂浪士にゆかりのある地では義士祭が行われるところもあります。
忠義を尽くして潔く散っていった義士たちに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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